戦争と平和の論理 掲示板
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30. 2013年01月16日(水) 22時09分03秒 投稿:匿名
戦争をなくす方法、教えます!
http://gensoumajinaishi.blog.fc2.com/blog-entry-5.html


29. 2012年01月02日(月) 07時46分41秒 投稿:Hal.T
私たちは人の間の距離で社会を把握している。中国船と海保の紛争で痛感したことだ。あの時の日本人の心理を左右できない平和論や平和教育なんてくそくらえだと思う。それよりも、小社会の人間は紛争を生き抜くために戦争と正義を必要とするという認識の方が根底的だ、たとえその通りにしなくても。

28. 2011年01月12日(水) 09時54分55秒 投稿:Hal.T
狩りをするサル ロバート・アードレイ 河出書房新社 1978/06

いろんな言い方がある。書籍にも、裸のサル、舞い上がったサル、そのほか言い方としてはパンツをはいたサルってのもある。もちろん我々のことだ。

霊長類でもチンパンジーやゴリラは少しだけ小動物を捕まえて食べる。でも、どうも我々はいつかの時点で本質的に肉食になったらしい。正確にいえば雑食ではあるが、犬や猫がときおり葉っぱを食べる程度の肉食と言う意味だ。

数万年前のクロマニヨン人のころから我々の先祖は厳しい寒さの中で暮らしてきた。そのころには、食べてくても青い物はない。もちろん小麦やコメは栽培していない。このころの情景を示す挿絵には男は狩りに、女は森にって絵があるけれど、夏場だけのようだ。冬は男は狩りに、女は荷運びと解体が主だった可能性が高い。今もシベリアやカナダではそういう暮らしをしている。アメリカインディアンはもともとベーリング海峡を抜けていったのだから確実にそんな生活しかありえなかった。

狩りは弓矢ではない。せいぜいがヤリと棍棒、そして石。これでマンモスを倒すのにはかなりの人間がとりかからなくては勝てない。そんなわけで社会性を持つ肉食のサル=我々になったという説がある。私もこれがほんとに近いと思う。

仲間を大事にし、協調する。その裏返しが戦争になる。ヤヌスの神、平和と戦争の両面の顔を持つ神様だけれど、まあそういうわけ。サルはそんな環境から平和的かつ戦闘的な人間になったわけだ。

いろんな人間の特徴がこういう進化の歴史を背景にすれば理解できる。ただし、全部が遺伝子に組み込まれた強力な本能と言うわけではないのが人間の人間たるゆえんだろう。協調性と戦闘性は幾分かは本能、多くは社会と文化的な伝達によっている。そこが人間の歴史を紐解くときの多くの困難になり、動物学や遺伝だけではうまくいかず、人類学や社会文化論的な話が混ぜ合わさってくるゆえんだ。

2500年前、スパルタのギリシャ進入を押しとどめたテルモピュライ。そこではスパルタ軍が全滅した。しかし、この全滅がギリシャ文化を守った。人は全滅しても守りとおす行動をすることがあるわけだ。彼らそれぞれにどんな意思があったのだろうかと言えば、一番の動機は戦士間の血のつながりよりも濃厚な連帯感、そして全体の意思として故郷とそこにすむ肉親たちを守りたいと言う意思だろう。そんな意思は日本でも特攻攻撃として死んでいった若者にもよく見られる。あえて散華とは書かない。そんな日本的な修飾言葉を遥かに超えた人類としての行動だとは言える。

たしかに、日本ざるでも、他のサル族でも、身を呈して集団を守ることはする。この志向を強力にしたのが人だろう。その傾向を強化したのが肉食のための集団的狩猟を維持する我々の進化に求められてもいいと思う。

27. 2009年07月09日(木) 08時26分09秒 投稿:Hal.T
戦争の世界史 ー技術と軍隊と社会− Wマタニール著

「戦略の形成」とあわせて読むと非常におもしろい。

フランス革命の進行を同時代人はあっけにとられて見守った。いきり立った群衆が、それまで神聖で侵すべからざ
る権威と思われていた全国政府やその他のお上の機関を、次から次へとうち倒すのに成功したのだからむりもない。
いっぽうで産業革命もまた、同時代人にははとんど自覚されなかったとはいえ、現代の歴史家たちがあと知恵であっ
けにとられ、いかにしてそしてなぜ起こったのかを詮索している。どちらの革命を引き起こすについても、思想と抱
負、私的な利害、飢えと恐怖がそれぞれに役割を果たした。自己の属する集団、階級、そして国への愛着もまた一役
かった。本章はこれらの双子の大変動の軍事的側面に注意を集中するが、あらかじめおことわりしておくと、そうす
るからといって、私は両革命を引き起こした最重要の原因が制度的軍隊だったのだといおうとしているわけはない。
最重要の原因はそれとは別にあった。

十八世紀の末年に旧体制を構成するさまざまなパターンを撹乱した根本的な要因は、フランスにおいてもイギリス
においても、おそらく人口増加であった。この人口増加は中国においてもヨーロッパにおいても、主として致死的な
感染症の発生率の低下によって起こったようである(1)。原因が何であれ、十八世紀の後半には疑いの余地なく人口増
加が起こり、そのことはフランスとイギリスの多くの地方で、農村における失業と都市人口の増加のかたちで観察さ
れた。とりわけ両国の首都人口の増加はめざましく、ロンドンの人口は一七五〇年ころの五七万五〇〇〇人から、一
八〇一年には九〇万人近くにも達した。パリの人口は一七八九年に六〇〜七〇万人に達していた。この数字は、この
年に当局が行った人口調査の結果に、まだ都市的環境に十分確固とした根を張りえていなかったために人口調査では
捕捉されなかったであろう流動人口を一〇万人とみつもって加えて出した数字である(2)。

26. 2012年07月15日(日) 19時54分00秒 投稿:Hal.T
以下はおそらく戦争について考えるときの最良の本であろう。大部だが前書きを引用しておこう。

戦略の形成 ウイリアムソン・マーレー、マクレガー・ノックス、アルヴィン・バーンスタイン

指導者が歴史に対して敬意を払わなかったため、また、歴史につきものの不可測な出来事を考慮に入れなかったために、ヴェトナムの地で命を落とした人々、戦友仲間無名の友に捧げる.

第一章はじめに  戦略について ウィリアムソン・マーレー、マーク・グリムズリー 源田孝訳

「戦略」の概念が、悪名高いほど定義するのが難しいことはつとに知られている。これまで多くの戦略理論家が戦略の概念の定義を試みてきたが、その努力は後世の批評の嵐を受けて虚しく挫折してきた。リデルハートのよく知られている戦略の定義「政治目的を達成するために軍事的手段を配分・適用する術」は、戦略という概念を定義することの限界を示唆している。なぜなら、リデルハートのこの素直ではあるが不適切な定義は、戦略を軍事分野に限定しているからである。実際には、戦略ははるかに広い分野で用いられている。

 事実、リデルハートのように戦略を直接的に定義すれば、本筋から外れてしまうであろう。なぜなら戦略とは、偶然性、不確実性、暖昧性が支配する世界で状況や環境に適応させる恒常的なプロセスにほかならないからである。さらに、こうした世界で策定される戦略には他の参加者の隠された不透明な行動、意図、目的も含まれているため、聡明な政策決定者が知恵をめぐらし洞察する際に負担になるものでもある。クラウゼヴィッッツは、そのような状況では、戦略の「原則或は規則(中略)それどころか体系」でさえも実社会の無限の複雑さによって弱体化し、常に適用不能に陥る可能性を指摘している。一方、モデル化やカテゴリー化を用いて戦略の分析を補うことはできるが、戦略の形成や戦争指導を成功裏に行うための方程式を提供することはできない。理論は固定された価値観をしばしば目的としがちだが、戦争と戦略をめぐる多くの事象は不確実であり可変的である。そのような固定された価値観という不健全なアプローチでは、戦略を構成する客観的要素を探究することは困難である。というのは、戦略には人間の情熱、価値観、信条という不可測な要素も含まれているからである。

 したがって、戦略の立案は、現実によってより大きな文脈のなかに強く規定されている。政治は戦略の形成に重要な影響を及ぼす。もちろん、外交・経済・車事資源も同様に戦略の形成に重要な影響を及ぼす。こうした要素の重要性は明白であるが、それ以外の要素もまた、それほど的確ではないにせよ重要なかたちで戦略思考に影響を及ぼしている。地理は、特定の政治体にとって脅威が比較的小さいかどうか、あるいは逆に潜在的な敵に囲まれているかどうかを判断する手掛かりとなる。歴史上の経験は、戦争と政治の本質についての固定観念や、戦略問題についての抗し難い衝動を生み出す。そして、イデオロギーや文化は、意識的あるいは無意識的に政策決定者や社会に影響を与える。イデオロギーや文化は、通常、脅威の有無についての認識を決定付けるばかりでなく、どのような対応策をとるべきかについての認識にも影響を与える。さらに、新たな脅威や機会に対応するにあたっての戦略評価の質の高さや対応速度は、政府組織の特性によって大きな影響を受ける。

 本章では、まず戦略の形成に際して影響を与えるこれらの要素について、次にその他の要素について考察する。ここでは、こうした要素が戦略と戦争計画の策定に大きな影響を及ぼすことを認識しておくだけでよいだろう。本書は、こうした影響力を幅広く考察することによって、何が戦略の形成のプロセスに影響を与えるのかということを明らかにするものである。

 本書の各論文は、一九八五年から八六年にかげてアメリカ海軍大学で行われた戦略と政策に関する多くの有識者の公式および非公式の議論から生まれたものである。
・・・・・・・・・・・・
したがって、本書の目的は、学説を伝えることではなく、国家戦略の形成や結果に影響を与える多様な要素を読者に紹介することである。政策決定者が直面している問題に対して正しい解決策を提供することはできないが、歴史は政策決定者が何を問いかけるべきかを示唆してくれる。

25. 2008年11月03日(月) 04時17分24秒 投稿:Hal.T
失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫) (文庫)

日本軍の組織論的研究なのだが、実際のところそうはうまく分析できていない。しかし、ものごと常に簡単に理解できるわけではなく、完全に理解できていないことがよくわかる、それなりに良いアプローチだと思う。組織論だけでは日本社会の縮図たる日本軍を分析しきれないことがよくわかる。では、何が可能か、その飛躍をみちびくための1ステップとしてみるならば非常に良い本だろう。

防衛大学の教官たちがこころみた第二次世界大戦の、戦争指揮についての分析は非常におもしろかった。多くの人がこれをとりあげているのもむべなるかなだ。米国の女性が記した「菊と刀」の日本版かもしれない。ただし「菊と刀」は敵国の人類学者(女性)というふたつの違和感があり、戦後の日本では肯定的に取り上げる者は少数だった。

日本人の少数しか、日本軍の戦争指導の分析である菊と刀をまともに読むことができなかったってことが、そもそも批判と改善のループを許さない下地なのにと思う。

ところで、つまるところ作戦毎の批判的分析どころか、過去の批判的分析を試みることができない、そのひとつに靖国に祭られて神になると言う風習があげられるだろう。神になってしまえば批判は許されない・・・・

真珠湾でどえらい失策をした米軍の指揮官は左遷、退役させられ一部は軍法会議に至った。ひるがえって日本軍のノモンハン、ミッドウェーの失策では一時的に引っ込まされるが、すぐに復活する。強烈に批判をして次に備える科学性が欠如していた。科学性というよりも、科学性を保持しなければならないはずの官僚制の欠陥かもしれない。過去の人的損失を放置して、つぎつぎと玉砕させてしまう、神がかり的な作戦は既に作戦とはいえなかったのかもしれない。

民主党の小沢を見ていると、こんかいの選挙は最後の選挙だなどとぬかす。そんな親玉を抱えている政党には未来をきづくことはできないだろう。紆余曲折しながら未来へつづくのが今という時間だ。あれがだめなら、こういう風にしよう、駄目さはなぜなのか、だからつぎはこうしよう。と言わなくて政治とはいえないと思う。

靖国の影とは、靖国を奉じているものへの揶揄ではない。それは信仰だから批判を許さないしできっこもない。靖国へ戦死者を奉じるのではなく、戦争指揮者の失敗まで埋め込んでしまうところに我々の決定的な問題があるのだろう。

24. 2008年09月03日(水) 07時01分55秒 投稿:Hal.T
日本人の書いた第二次世界大戦の戦記ものにはおもしろい特徴がある。いずれも「わが隊」とか「わが軍」という言葉で自らの集団を表現している。以前は、客観性に欠けるなと感じていたのだが、「人殺しの心理学」って本を読んで、その意味が氷解した。

これらの著者は「人殺しのトラウマ」を乗越えるために、「わが隊」と表現するようになったのではないかと思える。殺人を合理化するために仲間を守る行為だって思いがどうしても必要なのだ。日本人は戦後に戦争の合理性を確信できなかった、だからよって立つ支柱が仲間になるのだろう。激戦地ではなく、ただ兵隊に行って何事も無く戦争が終わった著者には、そういう強烈な仲間意識を必要としないのか、「わが軍」という言い方は少なくなるような気がする。

23. 2007年10月25日(木) 01時26分12秒 投稿:Hal.T
最近ギリシャ・ローマの歴史に凝っているが。この50数年生きてきて、言いたいほうだい言ってきて、何のことやらと思う。

すべては話され、書かれ、実行されてきた。人の行動や考えで有史以来という言い方が実に浅はかなものか・・・・。もちろん技術的な面では今と昔は大いに違うだろう。でも、そのときどきで先端技術があり、先端の殺人マシンがあったのは間違いない。ある意味で、全人類と生物のほとんどを1日のうちに抹殺できる道具を持ったのは最近の事ではあるが。

そうだ、愛と憎悪は対概念だったのだ。
人とはそういうものだと思う。

クロマニヨン人が墓に花を供えた、その心の芽生えと同時に隣人の殺戮を始めたのだろう。なんともはや。聖書にも、その前のギルガメッシュも、その記述のオンパレードだ。

22. 2008年08月21日(木) 18時44分09秒 投稿:Hal.T
トゥーキュディデース 戦史 
ペロポンネソス戦争(BC430)第一年次の戦死合同葬儀での弔辞

 弔辞者にえらばれたのはクサンティッボスの子ペリクレースであった。儀事がその段にいたると、かれは墓前から離れて、会衆全部に聞こえるように高く築かれた壇に登ると、次のような言葉を述べた。

 「かつてこの壇に立った弔辞者の多くは、この讃辞を霊前の仕来たりとして定めた古人を称えている。戦の野に生命を埋めた強者らには、讃辞こそふさわしい、と考えたためであろう。しかし思うに、行為によって勇者たりえた人の栄誉は、また行為によって顕示されれば充分ではないか。なればこそ今、諸君の目前でおこなわれたように、この墓が国の手で仕つらえられたのである。それに反して、多くの勇士らの勇徳が、わずか一人の弁者の言葉の巧拙によって褒歴され、その言うなりに評価される危険は断じて排すべきだと私は思う。なぜならば、真実の評価をなすぺき基礎を欠く場合、公正な発言をおこなうことはきわめて難しい。事実を知り同情に耳を傾ける者は、己れの心情や理解が弁者の言葉には汲みつくされていないと考えるであろう。逆に事実をわきまえず、しかも己れの力量をもってしては成しがたい事績を聞いて嫉妬する者は、弁者の誇張を憤る場合も多々あるからだ。なぜなら、他者への讃辞は聞き手の自信を限界とし、その内にとどまれば素直に納受されるが、これを越えて讃辞を述べれば、聞き手の嫉妬と不信をかうにとどまる。しかしながら、戦没者への讃辞は古人が嘉しとした慣例ゆえ、私も仕来たりを守り、諸君のできるだけ多くの人々の心情と理解を言葉につくすよう、努めなくてはならぬ。」

 「先ず私は、わが祖先に讃辞をささげたい。今日この場にあって、祖先の思出に最初の位をゆずるのはわれらの義務であり、この機にふさわしいからである。なぜならば、この土を、わが血脈の祖先らは古しえよりつねに住み耕やし、その自由を守る勇徳によって世々今日にいたるまで子らにゆずり渡してきた。そのゆえにわれらは遠き祖先に与うべき讃辞を惜しまない、だがそれにもまさる高い讃辞をわれらの父にささげねばならぬ。われらの父は古き領土に加えて、営々辛苦して今日の支配圏を獲得し、これを今日のわれらに残していった。そしてここにいるわれら自身、今なお壮んな活動期にある者たちは、受け継いだ支配をいや増しに押し拡げ、わがポリスの備えをあらゆる面で充実させ、和戦のいずれを問わず、かつてなき完全な体勢を把握するにいたった。ここに到達するまでの戦の道程は、われらや父たちがギリシアの内外から襲う敵勢を勇敢に撃退し、かの戦にはこの地を、この戦にはかの地を得たという一々の手柄話に伝えられて、諸君はすでに熟知のこと、長々とこれを繰述べることを省きたい。しかしながら、われらがいかなる理想を追求して今日への道を歩んできたのか、いかなる政治を理想とし、いかなる人間を理想とすることによって今日のアテーナイの大をなす声ととなったのか、これを先ず私は明らかにして戦没将士にささげる讃辞の前置きとしたい。この理念を語ることは今この場にまことにふさわしく、また市民も他国の人々もこの場に集う者すべて、これに耳を傾けるものには益する所があると信ずる。」

 「われらの政体は他国の制度を追従するものではない。ひとの理想を追うのではなく、ひとをしてわが範を習わしめるものである。その名は、少数者の独占を排し多数者の公平を守る声ことを旨として、民主政治と呼ばれる。わが国においては、個人間に紛争が生ずれば、法律の定めによってすべての人に平等な発言が認められる。だが一個人が才能の秀でていることが世にわかれば、無差別なる平等の理を排し世人の認めるその人の能力に応じて、公けの高い地位を授けられる。またたとえ貧窮に身を起そうとも、ポリスに益をなす力をもつ人ならば、貧しさゆえに道をとざされることはない。われらはあくまでも自由に公けにつくす道をもち、また日々互いに猜疑の眼を恐れることなく自由な生活を享受している。よし隣人が己れの楽しみを求めても、これを怒ったり、あるいは実害なしとはいえ不快を催すような冷視を浴せることはない。私の生活においてわれらは互いに制肘を加えることはしない、だが事公けに関するときは、法を犯す振舞いを深く恥じおそれる。時の政治をあずかる者に従い、法を敬い、とくに、侵された者を救う掟と、万人に廉恥の心を呼びさます不文の掟とを、厚く尊ぶことを忘れない。」

 「われらはまた、いかなる苦しみをも癒す安らぎの場に心をひたすことができる。一年の四季をつうじてわれらは競技や祭典を催し、市民の家々の美しいたたずまいは、日々に喜びをあらため、苦しみを解きながす。そしてわがポリスの大なるがゆえに、あらゆる土地のすみずみから万物の実りが此処にもたらされる。すべての人々が産みいだす幸を、わが国土のめぐみと同様に実らせ味わうことができるのである。」

 「また、戦の訓練に眼をうつせば、われらは次の点において敵側よりもすぐれている。先ず、われらは何人にたいしてもポリスを開放し、決して遠つ国の人々を追うたことはなく、学問であれ見物であれ、知識を人に拒んだためしはない。敵に見られては損をする、という考をわれらは持っていないのだ。なぜかと言えば、われらが力と頼むのは、戦の仕掛や虚購ではなく、事を成さんとするわれら自身の敢然たる意欲をおいてほかにないからである。子弟の教育においても、彼我の距りは大きい。かれらは幼くして厳格な訓練をはじめて、勇気の涵養につとめるが、われらは自由の気風に育ちながら、彼我対等の陣をかまえて危険にたじろぐことはない。これは次の一例をもってしても明らかである。ラケダイモーン人はわが国土を攻めるとき、けっして単独ではなく、全同盟の諸兵を率いてやって来る。しかるにわれらは他国を攻めるに、アテーナイ人だけの力で難なく敵地に入り、己が家財の防禦にいとまない敵勢と戦って、立派にかれらを屈服させることができる。しかもいまだかって何人もわれらの総力を相手に戦場で遭遇したためしはない。われらは余力をさいて海軍の操練をおこない、陸上部隊を諸地に派兵しているからだ。たまたま敵勢がわが軍の一小部分と遭遇しこれに勝とうものなら、全アテーナイ勢を破ったかの如くに豪語し、敗れればまた全軍に打敗られたかの如くにいう。ともあれ、苛酷な訓練ではなく自由の気風により、規律の強要によらず勇武の気質によって、われらは生命を賭する危機をも肯ずるとすれば、はや此処にわれらの利点がある。.なぜなら、最後の苦悶に堪えるために幼少より苦悶に慣れ親しむ必要がない。また死地に陥るとも、つねに克己の苦悩を負うてきた敵勢に対していささかのひるみさえも見せぬ。これに思いをいたすとき、人はわがポリスに驚嘆の念を禁じえないだろう。だがわれらの誇りはこれにとどまるものではない。」

 「われらは質朴なる美を愛し、柔弱に堕することなき知を愛する。われらは富を行動の礎とするが、いたずらに富を誇らない。また身の貧しさを認めることを恥とはしないが、貧困を克服する努力を怠るのを深く恥じる。そして己れの家計同様に国の計にもよく心を用い、己れの生業に熟達をはげむかたわら、国政の進むべき道に充分な判断をもつように心得る。ただわれらのみは、公私両域の活動に関与せぬものを閑を楽しむ人とは言わず、ただ無益な人間と見徹す。そしてわれら市民自身、決議を求められれば判断を下しうることはもちろん、提議された問題を正しく理解することができる。理をわけた議論を行動の妨げとは考えず、行動にうつる前にことをわけて理解していないときこそかえって失敗を招く、と考えているからだ。この点についてもわれらの態度は他者の慣習から隔絶している。われらは打たんとする手を理詰めに考えぬいて行動に移るとき、もっとも果敢に行動できる。しかるにわれら以外の人間は無知なるときに勇を鼓するが、理詰めにあうと勇気をうしなう。だが一命を賭した真の勇者とは他ならず、真の恐れを知り真の喜びを知るゆえに、その理を立てて如何なる危険をもかえりみない者の称とすべきではないだろうか。またわれらは、徳の心得においても、一般とは異る考えをもつ。われらのいう徳とは人から受けるものではなく、人に施すものであり、これによって友を得る。また施すものは、うけた感謝を保ちたい情にむすばれ、相手への親切を欠かすまいとするために、友誼は一そう固くなる。これに反して他人に仰いだ恩を返す者は、積極性を欠く。相手を喜ばせるためではなく、義理の負目をはらうに過ぎない、と知っているからだ。こうしてただわれらのみが、利害得失の勘定にとらわれず、むしろ自由人たるの信念をもって結果を恐れずに人を助ける。」

 「まとめて言えば、われらのポリス全体はギリシアが追うべき理想の顕現であり、われら一人一人の市民は、人生の広い諸活動に通暁し、自由人の品位を持し、己れの知性の円熟を期することができると思う。そしてこれがたんなるこの場の高言ではなく、事実をふまえた真実である証拠は、かくの如き人間の力によってわれらが築いたポリスの力が遺憾なく示している。なぜならば、列強の中でただわれらのポリスのみが試練に直面して名声を凌ぐ成果をかちえ、ただわれらのポリスに対してのみは敗退した敵すらも畏怖をつよくして恨みをのこさず、従う属国も盟主の徳をみとめて非難をならさない。かくも偉大な証績をもってわが国力を衆目に明らかにしたわれらは、今日の世界のみならず、遠き末世にいたるまで世人の賞嘆のまととなるだろう。われらを称えるホメーロスは現れずともよい。言葉の綾で耳を奪うが、真実の光のもとに虚像を暴露するがごとき詩人の助けを求めずともよい。われらは己れの果敢さによって、すべての海、すベての陸に道をうちひらき、地上のすみずみにいたるまで悲みと喜びを永久にとどめる記念の塚を残している。そしてかくのごときわがポリスのために、その力が奪われてはならぬと、いま此処に眠りについた市民らは雄々しくもかれらの義務を戦の場で果し、生涯を閉じた。あとに残されたものもみな、この国のため苦難をもすすんで堪えることこそ至当であろう。」

 「私がわれらのポリスについてかくも長く語った理由は二つ、一つにはこのような栄誉を担う諸君とそうではない敵勢とにとって、この戦に勝つか負けるかは全く違った意味を持つことを諸君に自覚して貰いたかった。また一つには、明瞭な礎の上に戦没者の功を明らかにしたく思ったからである。しこうしてすでにかれらの功績の主たるものは述べつくされた。なぜなら、私がポリスにささげた讃美は、ここに眠る人々やかれらと行動をわかちあった人々の勇徳によって真の美をえたからである。ギリシアに人多しといえども、この市民たちのように、讃辞の重みに勝るとも劣らぬ実績の重みを担って平衡を逸しない者が幾たり見いだせようか。いまこの地に安らぐ者たちの最期こそ、一個の人間の徳を何よりも先んじて顕示し、これを最終的に確認した証しである、と私は思う。たとえ何がしかの欠陥をもてる者でも、祖国のために戦って天晴れ勇士の振舞いを遂げれば、この徳を何にもまさるものとして認められてよい。善の輝きによって悪を消し、公けに益することによって私の害をつぐなったからである。かれらの中には一人として、富を愛づる未練さから卑怯の振舞いをなした者はなく、また貧窮から脱し逸楽を願う心から死をためらう者もなかった。己れの満足よりも敵に対する報復を恋い求め、これこそ万死に値する最高の美と確信して、死を覚悟で敵を討ち、至高の祈願を全うすることを決意した。そしてさだかならぬ勝敗の運を希望に託し、目前に迫る敵戦列に対してすべてを己が槍と盾に託すことを潔しとした。危険のさなかに残っては、命のかぎり立ちつくすことこそ、退いて身を守るより貴しと信じて、かれらは来たるべきものを生命でうけとめ、己が名を卑怯のそしりから守った。ついに死の手につかまれたとき、恐れは去り、生死の分明はとるに足りぬ偶然のさだめという誇らかな覚悟がやどった。」

 「こうしてこの市民たちは、われらのポリスの名にふさわしい勇士となった。残された者たちは、道のより安らかならんことを祈るがよい、だが、敵勢にむかっては一そう果敢なる戦意をゆめ忘れてはならぬ。敵を撃破すればいかに大きな仕合わせが待っているかということは諸君も承知のはず、またこの場で喋々とのべる要もない。とすれば、諸君はただ報国のすすめに満足するだけではなく、われらのポリスの力の日々の営みを心にきざみ、ポリスを恋い慕う者とならねばならぬ。そしてその偉大さに心をうたれるたびに、胸につよく噛みしめて貰いたい、かって果敢にも己れの義務をつらぬいて廉恥の行いを潔くした勇士らがこの大をなしたのである、と。かれらは身は戦の巷に倒れようとも、己が勇徳をポリスのために惜しむべきではないとして、市民がささげうる最美の寄進をさしのべたのである、と。なぜならば、かれらは公けの理想のために己が生命をささげて、己が名には不朽の賞讃を克ちえたるのみか、衆目にしるき墓地に骨をうずめた。いま安らぎを与えているこの土ばかりがかれらの骨を収めているのではない。かれらの英名は末ながく、わがポリスに思いをいたす者の言葉にも行いにも、折あるたびに記憶をあらたにする。世にしるき人々にとって、地上みなこれ青山というべく、その功は故里に刻まれた墓碑にとどまらず、遠き異郷においても生ける人だの心に碑名よりしるき不文の碑となって生きつづけていく。かれらの英名を若し諸君が凌がんと望むなら、幸福たらんとすれば自由を、自由ならんとすれば勇者たるの道あるのみと悟って、戦の危険にたじろいではならぬ。真に生命をも軽しとする人間は、怯懦の望を絶たれ苦悩に喘ぐ者の中にはいないはず、いな、運命の逆転を恐れる者、逆転によって現世の仕合せが大きくゆらぐ恐れを持つ場合にのみ、人は生命の危険を忘れうる。誇りをもつ人間ならば、怯懦のために屈辱をなめる苦しみは、祖国を信じ力の限り戦いながら突如生命を絶たれるよりも、はるかに耐えがたいと思うからだ。」

 「こう考えればこそ、ここに集っている戦死者の親たちには、憐みの言葉を語るまい、ただ一言、私は慰めの言葉を伝えたい。あなたたちは、さだかならぬ人生の転変を通じて人となり、すでに覚悟も固いはず、人の世の仕合せとは、死すべきときには、あなたたちの子供らのように、死にふさわしい至高のいわれをもつこと。そして悲しむべきときには、あなたたち自身のように、何よりも貴いなげきをもったことではないか。生にこめられた幸福が、死にこめられた仕合せによって互いに補いあっているからだ。もとよりあなたたちの悲しみを除くことがむつかしいことは、私にもよく判っている。ことに人のさんざめく幸福をみれば、楽しかりし昔を思い、思い出を恨むこともあろう。仕合わせを知らぬ者には不幸も辛くはない、仕合わせをつねとし、これを奪われた者にこそ不幸の嘆きはひとしお辛いのだ。しかし悲哀には勝たねばならぬ、まだ子供がもてる年の人々は次の子供たちに希望を託すがよい。年を追って育つ子らが亡き子らの追憶を己れの心から遠ざけてくれよう。また新しき子らは亡き者の空を埋め、守りを固くし、ポリスにも二重の益をなすこととなろう。しこうして市民たるもの、みな己れの子の生命にかかわると思えばこそ、対等と正義を政治の場において主張し得るのではないだろうか。またあなたたちの中で、すでに年老いた人々は、久しき人生を仕合せに過しえたことを果報に思い、残る悲しみもあと日数みじかいとして、先き立った子らの栄光によせて悲しみを和らげて貰いたい。諺にもいう、ただ名を惜しむ心のみが老いを知らず、仕事をなし終えたあなたたちの境涯にあっては、けっして我欲に汲々たる老醜をさらしてはならぬ、人々の敬愛をあつめるものとなって貰いたい。」

 「のこされた子供たち、弟たち、諸君にとってこれからの試練は嶮しいものとなる(人はみな逝きし父兄たちを称えるからだ)、いかに諸君が克己精励して徳を磨くとも、かれらを凌駕することはおろか等しいとさえ思われず、つねにやや劣るとの評に耐えねばなるまい。生者が死者と競うとき、見るものは生者に嫉妬を覚えるが、死者にはすなおな好意をささげるからだ。この度、夫を失うこととなった人々に、婦徳について私から言うべきことはただ一つ、これにすぺてのすすめを託したい。女たるの本性に悖ことが最大のほまれ、褒貶いずれの噂をも男の口にされぬことを己れの誇りとするがよい。」

 「仕来たりに従い言葉によって述べるべきものを、私は死者にささげた。行為によってかれらが受けるべき埋葬の礼はすでにとどこおりなくおこなわれ、かれらの子らが受けるべき養育は、この日から成年の日までポリスが国費によっておこなうであろう。この特典は、かくの如き試練に耐えた勇士らとその子らに、ポリスがささげる栄冠である。徳に至高の誉れを与うる国は、徳あつまり国政栄える、という。ともあれ、嘆きを身内のものに尽し終れば、ここを立ち去るがよい。」

 同冬の葬儀はかくのごとくとりおこなわれた。そしてこの冬が終ると、今次大戦の第一年が終った。


21. 2007年10月15日(月) 19時49分31秒 投稿:Hal.T
人類は小社会の構成員として友愛を持つようになった時点から戦争をするようになったのではなかろうか。内への友愛は外への残虐と対になっているのだろう。

旧石器時代の異物を見るとまれに見られる食人の痕跡と小社会の友愛が見られるようになる。いくら戦争が社会の必須項だとしても常に戦争をしていることはできない。戦争の合間に友愛の亜痕跡を大量に残し、たまに戦争の痕跡を残すのが遺物の正しい見方だろう。

小集団の争いに過ぎない場合は、簡素な防衛集落で済む。これが大規模なものになってくると環状遺構など、堀と塀で区切られた村落となってくると思われる。単に遺稿を並べるのではなく、古代社会の軍事力学的な分析をもっとしたほうがいいと思う。もっとも、想像で**民族などとたわごとを言ってるようでは見込みが無いな。

20. 2007年10月01日(月) 02時03分38秒 投稿:Hal.T
圧制は良くない・・・しかし今の圧制を排除して次の圧制を用意するだけだったことが実に多かった。
ああ、情けねえ。
ニーチェが、「金言で道を舗装してやる!」 って言った気持ちがわかる。違ったかなあ・・・うろ覚え。

19. 2007年09月30日(日) 17時41分41秒 投稿:Hal.T
 [http://www.madlabo.com/mad/madlabo/company/kiken1.htm]
>報道写真とは命がけの他人事なんだから。
おおっ!、年間ポチ賞だ。

私も言い換えてみよう。災害観測とは命がけの他人事、死んだらお笑い種。
あまりできが良くないけど書いておこう


18. 2007年09月30日(日) 17時30分18秒 投稿:Pochi
タン・シュエ議長の娘の結婚式映像を、政府高官の娘と解説してみたり、軍事政権という言葉に人格を付与して多用したり(軍事政権に軟禁されて云々)して、
悪役の顔の見えないニュースを流し続け、第一線には独立系のジャーナリストに行ってもらい、死んだら死んだでもちあげるに事欠いて木口小平ですかそうですか。

だいたい独立系ジャーナリストって、弱者に寄り添うことを出発点としてる人が目立つけど、それは決して悪くはないのだけれど、撃たれる側に自分を置くほど感情移入したらいけません。報道写真とは命がけの他人事なんだから。

17. 2007年09月29日(土) 23時01分13秒 投稿:Hal.T
「ミャンマーで日本人ジャーナリストが死亡」
日本政府の発表によると、弾丸は右胸下部から入り心臓を突きぬけ左肩に出ていると言う。

ビデオ映像では、倒れた時にはすでに右胸の下部(腹の付近)に赤い斑点が見えている。倒れてから撃たれたのではなく、撃たれたから倒れたのだとすれば、弾丸は路面から撃たれた?。兵士から狙い撃ちされたのならば、兵士が座り込むか至近の路面に銃を落として撃てばそのようになるが、これは跳弾だってことになる。

倒れる瞬間に飛び上がっているのは下部から上部への運動量が与えられたからかもしれないが、人体の反射反応かもしれない。

兵士が威嚇のためか、誤って暴発したのかわからないが、路面に銃を発射したのだろう。報道は業界の身内が死んだことについて、こんな分析すらしていない。

16. 2007年09月20日(木) 10時13分49秒 投稿:Hal.T
 [http://www.madlabo.com/mad/research/rekisi/war_peace/jah.htm]
15 山田花子さん>
上のURLを読んでいただけますか? 大きな喧嘩と戦争について書いてあります。

15. 2007年09月12日(水) 15時20分38秒 投稿:山田花子
はじめまして!わたしは小学6年生です。
今、戦争と平和について調べています。わたしにとって、戦争とは、大きなケンカだと思います。始める人の勝手で、始まり、勝手に終わる。という、とても無意味な物だと思います。戦争をなくすためには、普段のいじめ、悪口を無くす(自分から始める)ことが大切だとわたしは思います。
 わたしにとって平和とは、なにも変わったことが起きず、平凡に暮らすことができることが平和だと考えます。自分がえらくなりたいとか、独せんしたいということを考えず、平凡に暮らせることが一番の平和とわたしは考えています。

14. 2007年08月11日(土) 00時38分39秒 投稿:Hal.T
 [http://hawaii-nation.org/publawall.html]
UNITED STATES PUBLIC LAW 103-150

103d Congress Joint Resolution 19
Nov. 23, 1993
To acknowledge the 100th anniversary of the January 17, 1893 overthrow of the Kingdom of Hawaii, and to offer an apology to Native Hawaiians on behalf of the United States for the overthrow of the Kingdom of Hawaii.

合衆国公法103-150

会期103d (上下両院)合同決議 1993年11月19日
合衆国を代表してハワイ人原住民に対する謝罪をハワイ王国の打倒(1893年1月17日)から100回目の記念日を期して決議します。


13. 2006年08月15日(火) 14時58分07秒 投稿:Hal.T
靖国
 小泉が靖国に参拝したそうな。霊が存在すると信ずるのは自由だし何を言ってもしかたない。首相の靖国参拝はあの戦争が犯罪的なものかどうかの判断を日本国民に迫るものだとは言える。実のところ犯罪とは人間的な行為かどうかには関わりなく犯罪と断定する権威があってこその定義だとするならば国家の犯罪は存在しない。しかし、そうではあっても普通の日本国民にあの戦争が犯罪的かどうかを身の丈のレベルで本当に問うことになるのかもしれない。

 簡単に言えば他人の住む国に押し入って暴虐の限りを尽くしたのだから、とんでもないことである。結局はこの認識が定着するのではないかとも思える。事実は事実だ。どんな言い訳を言ったとしても他国に押し入り、その国の人々を2級市民どころか人間扱いしなかったことは否めない。

 戦死した者を犬死と言うのか? と言うものがいる。あえて言おう、彼らは犬死したのだ。決して平和のために死んだのではない。原爆で死んだ者、空襲で死んだ者、彼らはアジアの民と同じく犬死したのだ。戦死者は平和のために死んだなどとたわけたことを言ってはいけない。それこそ大いなる侮辱だ。

12. 2006年08月07日(月) 05時41分32秒 投稿:Hal.T
正義とJustice

どうもJusticeを正義と訳すのはおかしいように感じる。正義とは義を持って約束した者どもが、その義を維持する行為のことだ。つまり義は約束=契約を意味しており、義によって立つと言うのは、同属だから立つと言うのとは違う。義兄弟はニセの兄弟と言う意味ではなく、義を交わすことによって兄弟になったと言うことだ。いっしゅの封建制だと言ってもよかろう。封建制とは義によって成り立つシステムであり、正義とはもともと封建制を維持する暴力装置の発動に違いない。

したがって正義は(万人にとって)正しい行いとするならば間違いであり、義を持って約した人々の間で正しい。つまりあい争う2集団の間においてそれぞれに正義の助っ人がありえる。老子が唱えたものと言われるが定かではない。もともと中国の官僚からの圧政に苦しむ地方村落の自警団の集合体を結ぶものが義の発端とするとも言う。つまり、このばあい正義とはある集合体の中で契約によって成り立つもの(戦闘)が正義の実行である。

日本では、正義の戦争は無いと、よく言われる。しかし、義を実現するために暴力装置を稼動させることが正義であるとするならば正義の戦争があることがことの本質だろう。つまり正義とは戦争のことなのだ。

人類が社会的な集団として成長していく段階で正義と戦争は常について回る。ある段階の国家とは、その時点で暴力を独占している権力構造であり、その権力は小国家間の相互補完として正義によって維持される。

11. 2006年08月07日(月) 00時31分52秒 投稿:Hal.T
日本、日本人、そういったカテゴリーをいったん離れてみた方がいいのかもしれない。
自由、責任、罪、正義などと言うほんらい個人的なものは、集団を示すラベルで表記したとたんに意味の機能を失う。

おためごかし左翼みたいに、中国や韓国に行って私の罪で無いのに日本人の罪などを謝るべきではない。そんな謝罪には何の意味もないどころか、日本人などといったカテゴリーで次の時代の人間を新たに束縛するだけだ。

2千何百年だかの歴史を持つ天皇、そんなものは私に何の関係があろう。いったんはそこまで言い切るほうが良い。後でそのさすものを取り戻したければそうすればいい。無前提に日本などと言うべきではなかろう。

10. 2006年07月22日(土) 12時54分16秒 投稿:Hal.T
知られている最古の玉砕 -> 紀元前四八〇年のテルモビュライの戦い (暗号攻防史 ルドルフ・キッベンハーン)
欧州道路七五号線をテッサロニキからアテネ方面へ走ると、オリンボス山の脇を通り、やがてラミア湾に差しかかる。丘の上に立つ記念碑がいにしえの戦いを偲ばせる。そこは、クセルクセス大王率いるペルシャの大軍にスバルタ王レオニダスが果敢に立ち向かって玉砕した、テルモビュライの古戦場である。

9. 2006年07月21日(金) 04時57分46秒 投稿:Hal.T
どんな思想を持っているかなんてあまりおもしろくもない
なんでそんな思想を良しとしているのかの方がよっぽどおもしろい

どうも、たいていの世界観は友達関係で決まるのじゃないかと思える。私が周囲の人間を見て感じることだ。
人は周囲に流されるとも言う、社会的な存在としての人間はもともとそういう面を持つのだろう。

世の馬鹿者達は、今その人が所属する社会や思想で色付けをして判定する。「社会的生物としての人」を観察するひとつの手段としては妥当だろう。しかし、ほんとうに正しいのかと言えばそうでもない。XX人、XX国の人、社会同士が交流する現代では国籍ひとつで決まるわけも無い。日本にいる韓国人、中国人。私にも外国から来た友達がいる。逆に私があちらへ行くときにはひっくりかえした立場になる。

どこにいても、危機に遭遇すれば茫洋とした定義である日本人よりも見知る友人を助ける立場を取るだろう。その瞬間に日本や中国と言った定義からではなく局地的な社会が成立したと言える。

8. 2006年07月21日(金) 00時54分05秒 投稿:Hal.T
愛国心のために戦うという考え方は、国家成立以前の集団の考え方と根底から異なる。われわれが
このことに理解がおよばないのは、学校や教会や政府によって、愛国心の偉大さを頭にたたき込まれ
ているからである。その証拠にどの国家にも、必要とあらば国のために市民に命を捧げさせるスロー
ガンがある。英国では「祖国と王のために」、スペインでは「神とスペインの名において」 である。
十六世紀のアステカ兵士も国のために戟った ー 「戦場における死ほど素晴らしいものはない。命を
あたえてくれる主(アステカ国家の神である、ウィツィロボチトリ)に捧げる華やかな死ほど素晴ら
しいものはない。私の心は、はるかかなたの死を切望する!」

ちなみに、こういう思いを小規模血縁集団や部族社会の人びとが持つとは想像しにくい。私は、ニ
ューギニアの友人たちから、彼らがかつて戦った部族抗争の話をいくつも聞かされたが、そこには愛
国心とか決死の襲撃とか、殺されるのを覚悟のうえでの戦闘、といった言葉は一度も出てこなかった。
むしろ彼らは、村のために誰かが命を落とす危険を最小限にくい止めるために、待ち伏せをしたり、
戦力が圧倒的に有利なときに戦ったりしていた。しかし、こうした戦闘精神は、国家社会のそれとく
らべると、部族社会の軍事上の選択肢を狭めてしまう。愛国者や狂信者が恐ろしいのは、敵を打ち負
かし、戴滅させるために、自分たちの一部は死んでもかまわないと思って戦うからである。歴史に残
るキリスト教徒やイスラム教徒を征服戦争にかりたてた狂信主義は、首長社会や国家が六〇〇〇年前
に誕生するまで、どこにも存在しなかったのではないかと思われる。

銃・病原菌・鉄 下巻 ジャレド・ダイアモンド

7. 2006年07月19日(水) 00時40分46秒 投稿:Hal.T
ここを本格的に再開するになった、(別MLのようなもの)のきっかけを記載しておく。
以下-------------------------------

今日、親友の奥さんのお店に行って散髪。サッカーの話題の中で、「日本はあの程度でしかたない」などと言っていたら愛国心に話題が変化。「近頃の若い人は愛国心が無いのね」って何度も言う。数度はフンフンと答えていたのだが、ちょっと屁理屈っぽく、「私、愛国心なんてわからないよ」と言ってみた・・・。あちらさんは、「自分がよけりゃいいのね」と言った。違うんだなあ・・・

特に愛国心とか言うのなら、地域名で言えば愛県心や愛市心なんてものがあってもよかろうけれど、愛国心だけは別格にしているようだ。愛妻や愛犬なら対象がはっきりしている。ほんとうに愛国心だけはよくわからない。よくわからないと言うと非国民扱いする奴もいる。そんな時、そいつの「国」に私の居場所は無いと感じる。

明治のころ、前橋と高崎がよく喧嘩していたと聞く。ガキのころに隣の町のガキどもとは仲が悪かった。そういう風になれってのが愛国心ってのかしら。

アジア各国の友達がいる、日本人の友達もいる、国家とは国内に住む人を守るために暴力を独占する。それなりの歴史を持つ社会システムだと思う。そのために税金を取り安全を維持する仕組み以上のものではないと思えるんだが、どうなんだろう。

6. 2006年07月18日(火) 07時46分00秒 投稿:Hal.T
最初に注意しておきたいことを書いておきます。

ここでは、あなたや私がどのような思い「思想や世界観」を持っているかについては問題としません。どのようなものでも結構です。つきつめたいことは、なぜそのような思いが妥当であると言えるのか?、そこを鮮明にしたいと考えています。

そのために思いの根本的な底の底までをしつこく問いただすでしょう。ただ、最終的に「そう思うから」となってしまうかもしれません。それはいたし方の無いことです。人間は生物の一員ですから、生きたいといった要求が根底にあり、社会的な生物としては所属する社会組織を無条件に認めたくなる場合もあるでしょう。

私の予想では戦争と平和の論理の行き着く先は人間の社会性であり、戦争は小社会の一部として必然なのかもしれないと感じています。しかし、細切れの小社会が中規模から大規模に成長するにつれて、戦争の主体も数家族から部族へ、地域の小国家から地域全体の国家へと変遷してきました。これから未来に何が起きるか定かではありませんが、世界は必ず変化していきます。そこで、戦争と平和と国家の関係について考えたいと思っているわけです。

5. 2006年07月18日(火) 06時23分29秒 投稿:Hal.T
 [http://www.madlabo.com/mad/research/rekisi/war_peace/jah.htm]
ずーっと以前に書いた、この研究主題の趣旨

4. 2006年07月18日(火) 06時01分50秒 投稿:Hal.T
戦争と平和、国家の成り立ちと軍隊。昔から今に至るまで、非常に興味深い問題だと思っている。

以前、MLでばかげた論争になったこともあり、この議論はしたいのだけれど進め方は非常に難しい。

理解を深めるためなので、残念ながら2chのように書き込まれた内容を無条件に掲示するわけにはいかない。私も議論の当事者ではあるが断固として内容を整理するしかないことを理解していただけるのなら、ここで真摯な議論を再開してみたいと思う。

3. 2006年07月14日(金) 04時34分21秒 投稿:Hal.T
 
IMG_2549.JPG 東北沖300kmの太平洋。調査船の夕暮れ。
 

2. 2006年05月17日(水) 14時15分19秒 投稿:Hal.T
社会主義が殆ど常に労働階級の独裁ではなく個人的な独裁になるのはなぜだろう?

ひとつは労働階級を定義する恣意性、誰かが定義しなくては存在しないから、その誰かに権力が集中するのだろうか。

それとも、

1. 2005年06月02日(木) 17時35分09秒 投稿:Hal.T
しばらく停止していたけれど、再開してみよう。

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